AIの「進化」よりも先に人間の「AIでいいか」という妥協が先に来る。

AIの進化・発展が著しい2025年。
ChatGPTが地上波バラエティのオモチャだったのは2024年の頭くらいだろうか。それすら記憶が朧げになりつつある中で、いよいよ業務の中でも触れる機会が増えてきた。

現在の画像・動画生成(ザックリした表記になってしまうのは自分の知識がそれほどないから)は日本語でのプロンプトではあまり上手にできていない印象で、生成されるものもお世辞にも完璧とは程遠い。が、文字を打ち込んで素材の画像をアップロードするだけでここまでできるのか。と、驚くところまでは到達している。

これは多くのひとが思っていることであろうが、現状ここまできているということは、あっという間にその技術は実用レベルになるのだろうな。というのはChatGPTやGeminiのような言語AIの発達速度を見ていれば嫌でも察する。

働いている会社で日本語プロンプトを翻訳にかけて英語プロンプトを作成してAI生成の実験を行っているのは、現在人間が手を動かして行っている“程度”のデザイン業務であればAIに置き換え可能である。という判断からだろう。
個人的には本当にそうか?という気持ちと、エネルギー問題を踏まえるとこのまま生成AIを普及させたところで世界規模のエネルギー問題とどう対峙する気なのだろう。と、懐疑的ではある。

そしてAIの生成技術の発展以上に人間の労働力に対する成果物よりも、クオリティは下がっても労働力のかからないAIによる成果物で十分。とクライアントが思い始めることがの方が先に来るのではないか。と思うようになってきた。

安いもの、楽なものに流れていく。

先日もJRのポスターで使用されたイラストがAIによって生成されたものではないのか。と話題になっていたが、個人的に危機感?を感じたのは、そのイラストの是非ではなく、広告費にある程度金をかけられる(過去形としてかけられたと言うべきか)はずのこのクラスの会社が自社のイメージ広告に「生成AIでいい。十分だ。」という判断を下したことだった。

生成AIの是非、クオリティ、エンドユーザーにどう見られるか以前に、金をかけずにここくらいまでのものが担保されるのであれば、これでいい。という判断が下ることに嘆きたくなる気持ちになる。

しかし、これは2010年代に街で配られる大半の印刷物が「いらすとや」のイラストに置き換わったときの風景に似ている気もする。広告費に金をかけられない、もしくはかけたくない企業にとっては、いらすとやはそのクオリティと点数によってものすごい勢いで見かける頻度が上がっていった。少数を除き、他の追随を許さなかった。
絵柄の違うフリーイラストを組み合わせるストレスをいらすとやは解消したのだ。
少数というのは「いらすとや」はちょっと……というひとの受け皿になったイラストAC等で活躍するフリー素材を提供しているひとたちで、個人的にもそれはもうお世話になった。

いらすとやが普及した頃はTwitterでイラストレーターの少なくないひとたちが「仕事がなくなる」と言っていた気がする。いまの生成AIほどの波ではなかったかもしれないが、イラストレーターの方々がその手で生み出すものの価値は変わらない。もしくはその価値は上がったのではないか。とすら思う。

その価値観が2極化するだけだ。2極化は間違いなくするとは思う。全く価値を見出せないひとには見出せない。「AI絵師」なんかはその筆頭ではないだろうか。

そういう意味では企業に勤めて働いている自分のようなデザイナーが真っ先に仕事を失うのでは?と思ってしまうのだが、それについて考え始めると憂鬱になってしまうので考えないようにする。

とにかく生成AIが生まれて普及してしまった世界は後戻りもしない。

道具としてどううまく付き合っていくかは別の問題として、発注側が「もうこれでいいや。」になるのは時間の問題だと思う。それは概ね間違いがないのではないか。

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