学ぶとは、世界が広がること。映画『型破りな教室』感想

学ぶとは、世界が広がること。映画『型破りな教室』感想
学ぶとは、世界が広がること。映画『型破りな教室』感想

ずっと見たかった『型破りな教室』を見た。

沖映社で感想を聴いたのが1年くらい前。やっとこさ見たのだが、面白かった。もっと早く見ればよかった。評判のいい映画はいつもそうだ。

※この感想には映画のネタバレが含まれます。

感動という言葉で片付けてはいけない現実と、その現実の中で学ぶことの喜び

アメリカとの国境近く、劣悪な環境下でメキシコ最下層の成績の小学校で実際に起きた変化の物語。

ゴミ山のすぐそばでゴミを売って生活をしている少女パロマの物語に確かに感動した。だが、その側で生徒のひとりニコはギャングの片棒を担ぐことをしない決断をした結果命を落とし、ヤングケアラーのルペは学校を離れる。難民の男の子は学校に通うこともできない。それは実際の当時のメキシコの“現実”というのはむしろこっちなんだろう。

では、なぜそんな現実の中で学ぶのか。

それは、そもそも何かを学ぶということそのものに喜びがあるから。なのかと。一方で自分は何故、義務教育の中で何かを学ぶ喜びを知ることができなかったのか考えてしまった。

少し個人的な話になる。自分は義務教育の中で学校の勉強や、そこから繋がっていたであろうものに興味関心がなかなか持てなかった。学校の勉強が苦手なのに「テストの点」しか見えてなかったこと。それがびっくりするくらい低かったことから自己肯定感も低かった。両親が高卒なのも影響しているのか、家庭内で勉強の優先度が比較的低かった。地域柄なのか付き合いの長い友人も比較的似たような成績の集まりでそれが普通だった。等々思いついたが、理由なんてそのうちのどれかというわけではなく、それらいくつかの要素が複合的に重なり絡み合っていたのだと思う。

自分にはフアレス先生のような先生との出会いがなかった。と、言いたいのではない。もしかしたら出会ってきた先生の中にフアレス先生のような先生もいたかもしれない。ただ、自分が学ぶ喜びに気づけなかっただけなのかも。細々としたものはあったかもしれないが『型破りな教室』で描かれたようなプリミティブな喜びは、少なくとも義務教育の間はなかった。

自分にとってそういうものを知ったのは専門学校時代に興味関心があった分野を勉強していたときと、大人になってラジオを聴くようになり、そこで流れてくるものに関する本や映画に触れるようになってから。10代前半で気づく子どもたちがいる一方で、大人になってからやっと気づいたのは、遅かったとは思う。でも、気づいたのも確かだ。

学ぶとは、世界が広がること

大人になってから気づいた「学ぶことの面白さ」は、自分が生きる世界が広がること、もしくは視界が広がって世界が広く見えること。モヤがかかっていた世界が晴れること。ボヤけていた世界が鮮明に見えるようになること。そんな風に言い換えられる気がする。

生きる世界が狭い子どもの時代にこそ、自分たちが生きている世界の広さを知る必要があるのではないか。ゴミ山からスペースXの発射場を見ていたパロマ、図書館で無数の本に出会ったルペ、砂浜から水平線の向こうに船を出したかったであろうニコのように。

片田舎に住む子どもの自分の世界は狭かったけど、不幸ではなかったし、大人になったから広がった世界も悪くないとも思う。それでも、『型破りな教室』のように子どもの頃に世界が広がっていたらどうなっていたのか。そんなことを考える。

ルペに少しだけ自分を重ねる

登場人物の中で印象に残ったのはルペ。多産の家庭で育ち、ヤングケアラー故に学校を去ったルペ。自分の境遇とは全く重ならないが、ルペに感情移入してしまったのは家庭の中で「子どもが未来を描くこと」が“想定されていなかった”からかもしれない。

高校2年のときに専門学校に行きたい。と両親に打ち明けたことを思い出した。「就職するもんだと思っていた」と言われたのを覚えており、自分でもそう思っていたので「本当だよね……」と返した。理解があり、進学が叶い、いまでもその業界の隅っこにいる。いま興味関心を持っているのはその分野と直接的な繋がりがあるわけではないが、進学ができたからこそきっかけを得られたものだとも確信を持って言える。

そして専門学校に行きたい。と、思わせてくれた先生こそが、自分にとってのフアレス先生だったのかもしれない。少なくとも今でも恩師として慕っている。

ルペの未来が、ルペのような子どもの未来がいつか開けることを願わずにはいられない。

日本という、ギャングとも麻薬とも心理的にも物理的にも距離があり、両親の理解によって学びへの未来が開けた自分の願いは傲慢だろうが。それでも願う。

そんなことを考えた映画だった。

by
関連記事