なぜ『ミュージカル ノートルダムの鐘』はこんなにも心に残るのか。
※この文章にはアニメーション映画・ミュージカル『ノートルダムの鐘』、原作小説の『ノートル=ダム・ド・パリ』のネタバレが含まれます。
2026年7月、3年ぶりに『ミュージカル ノートルダムの鐘』の幕が上がる。
今年は大阪へ観劇のためだけに行く。なぜ、数年ごとに1万円以上のチケット代を払い、劇場に足を運ぶのか。何度もサントラを聴き、曲も歌詞も物語もほとんど覚えてしまっているのに。そうさせる魅力がなんなのか、自分なりに文字にしようと思う。
初めて『ノートルダムの鐘』に興味を持ったのはいつだったか。『伊集院光 深夜の馬鹿力』で伊集院光が絶賛していたのを聴いて興味を持ったか、ちょうどディズニーのアニメーション映画を片っ端から見ていた中で元になった映画を見て興味を持ったか。はたまた、それらが同時期だったか。いずれにせよそのどれかであったかと思う。
その後、初めて『ミュージカル ノートルダムの鐘』を見たのが2018年の秋。名古屋公演だった。初めて見終わった感想は「去年(2017年)横浜で観ればよかった(そうすれば2018年の名古屋公演がおかわりになったのに!)」だった。
好きなひとからしてみれば回数は観ていない。強がりを言えば、回数ではないのだ。事実、その全てが強く心に残っている。名古屋で初めて観た衝撃。2度目の名古屋は衝撃が確信に変わり、横浜での3度目コロナ禍だったこともあり、幕が上がることにただ感謝をしていた。
今後観劇する予定があってネタバレを避けたいひとは読まなくていいし、少しだけ興味を持っているひとには何かの参考になれば嬉しい。
アップデート版『ノートルダムの鐘』メディアミックス
ディズニーのアニメーション映画『ノートルダムの鐘』はディズニーのアニメーション映画ファンの中でも隠れた名作だ。オープニングでアラン・メンケンが手がけた荘厳な音楽に圧倒されたらもう、この映画の持つ力に引き寄せられ、虜になってしまう。その一方で、ヴィクトル・ユゴーによる原作『ノートル=ダム・ド・パリ』をどうにかこねくり回して観客が納得する“ハッピーエンド”にした物語でもある。ディズニー映画という意味では一定の納得度はできるが、どこか無理があるというか、ひとによってはハッピーエンドなのか……?と、首を傾げるひともいるだろう(事実、過去に友人に勧めたら「ハッピーエンドじゃなかった」と言われた)。
個人的には『ノートル=ダム・ド・パリ』という物語をハッピーエンドにするにはああするほかない。むしろあれがギリギリのハッピーエンドであると言い切れるくらい原作の『ノートル=ダム・ド・パリ』はハッピーエンドとは程遠い物語なのだ。
『ミュージカル ノートルダムの鐘』は、音楽や音楽演出はディズニーのアニメーション映画を下敷きにしつつ、物語は原作の『ノートル=ダム・ド・パリ』を下敷きにしている。つまり、アニメーション映画をより原作に寄せた形での再メディアミックス化したものだ。現状見られる理想的な『ノートル=ダム・ド・パリ』のメディアミックスのひとつであると言っても差し支えがないと思う。少なくとも、大人に向けて投げられた豪速球の『ノートルダムの鐘』であると言い切れる。
ただ、ここで未見の方に伝えたいのは、それがイコールで「バッドエンド」にはならないことだ。そう捉えられる要素はいくらでもあるが、必ずしもそうとも言い切れるものでもない。
原作とも映画とも異なるカジモドとフロローの関係
先ほど『ミュージカル ノートルダムの鐘』は原作と映画のいいとこどりをしたバージョンである。と書いたが、それだけではない。原作にも映画にもない、少しのアレンジが加えられている。
それは、カジモドとフロローを血縁関係にした。という点だ。
原作では捨て子だったカジモドを引き取り、アニメ映画ではジプシーの子であるカジモドを引き取ったフロローであったが、ミュージカル版では冒頭フロローの生い立ちから語られる。
教会に引き取られたフロローとジェアンの性格が真逆の兄弟、真面目な兄:フロローと遊び好きな弟:ジェアン、2人は共に教会で育つがジェアンは教会を破門にされてしまう。その数年後、病から死を悟ったジェアンがカジモドをフロローに託すことから物語は始まる。
『ノートル=ダム・ド・パリ』は親殺しの物語の側面がある。それは原作もアニメ映画もミュージカルも変わらない。
ミュージカルでカジモドとフロロー、相反する2人を叔父と甥の血縁関係にしたことで、フロローにとってのカジモドは「請け負ってしまった子」から「愛する弟から託されてしまった子」になった。そのことによって観客の感じるフロローのカジモドに対する愛憎はより混沌とする。
一方、物語の進行上カジモドはフロローを殺すことになる。カジモドもまた「育ての親を殺す」が「育ててくれた叔父を殺す」こととなり、親殺しの業はさらに深くなる。
人間と怪物、何処に違いがあるのか。
劇団四季の予告にもあるが、今作で問われるのは「何が人を人間にし、何が人を怪物にするのか。」ということだ。
“怪物”として育てられたカジモドと、カジモドを“怪物”と育ててきたフロロー。2人がエスメラルダやフィーバスと出会ったことにより、彼らの日常は後戻りのできない悲劇に突き進む。
そして物語の終わり観客はに問われるのだ。
「答えてほしい謎がある。「人間」と「怪物」、何処に違いがあるのだろう。」
その答えの出ない問いを自分の中に巡らせるために、何度も観てしまうのかもしれない。
観劇という形でしか得られないもの
正直なところ、映画を見てSpotifyやApple Musicでサントラを聴けば、おおよその物語は掴める。自分がそうだった。
なるほど、ここが違うのね。そして、結末はそうなるのか。と。
しかし、初めて劇場で観たとき、始まってすぐに「自分の想像や期待はあっという間に超えていく」という経験もした。ネタバレという情報は現実の体験の前では本当にちっぽけなものだったし、サントラを聴くだけではわからなかった部分もある。
当たり前だ。目の前の舞台の上でその瞬間に人間が舞台を作っているのだ。
その感動は、2時間弱という時間軸で同様に語られる映画とは異なるものだと認識をしている。ひとによっては苦手意識もあるだろうし、実際観てう〜ん。ということもあるかもしれない。それでも、10代の頃ミュージカルって急に歌うんでしょう。と、冷めた目で偏見を持っていた自分が多くはないがそれでも年に数回は新幹線に乗ってまでして劇場に行くようになったのだ。
そういう感動(という言葉で括ってしまうのは若干の抵抗があるが)が、劇場にはある。
いつか、誰かが劇場に足を運ぶ背中を押すことになったら嬉しい。
公式動画
最後に、劇団四季が公式に上げている動画を貼っておく。
音楽の迫力がすごいのだ。きっと、スピーカーで聴いてもイヤホンやヘッドホンで聴いてもすごいと感じると思う。しかし、劇場で生で聴く圧は全然それらを超えてくる。
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