【今週考えたこと】マジョリティの消費のためだけに作られる悲劇なら、なくていい。

亜月ねね『みいちゃんと山田さん』がアニメ化されることが発表された。

連載が始まった当初読んだが全く好みではなく、Twitterで話題になっても強い関心はない。強い関心を持っていないなら触れない方がいい。得しないのもわかっている。が、思うところがあるので少し書く。

貧困や障害、社会に生きる中で立場の弱いひとを描いてきたフィクションはこれまでもいくつもあった。しかし、昨今気になるのは本作のように社会における弱者が社会の中で食い物にされる作品が目につくようになったことだ。それも少年誌媒体での掲載によって若年層が目にしやすい形で発表されている。

今作の話でいうと、1話のラストでみいちゃんの死が約束されており、読者の興味関心は「なぜみいちゃんは死んだのか。そして、どのように死ぬのか。」になるように設計されているのではないか。それは『100日後に死ぬワニ』の「確定された死」の部分を露悪で煮詰めたような興味の惹き方ともいえる。

今作は「現実の不幸を描いたマンガ」ではなく「現実の不幸をマジョリティ(非当事者・外野)がエンタメとして消化するためのマンガ」に見えてしまうのだ。

アニメ化が発表され、本作への懐疑的な意見に対して「嫌なら見るな」「表現の自由を侵害するのか」「悪いのは作品ではなく受け取る個人」といった、見飽きた意見が並んでいるのを見かけた。が、どれも少し的外れではないのか。

制作側からは「偏見や誤解を助長しないよう慎重に制作する」といった声明が出されたが、物語そのものが偏見や誤解(誤解ってまた受け取る方に問題があるというニュアンスを見受けて辟易するが)を助長しないように……って、そもそも偏見を助長する可能性が大いにある作りの物語に見える。

先日『劇団四季 ノートルダムの鐘』について書いた。

それで思い出したのだが、ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』はここ数年の間に実写企画が2つ持ち上がっていた。ひとつはディズニーによる『ノートルダムの鐘』の実写映画化企画。ジョシュ・ギャッドが関わっていたという。もうひとつはNetflixのイドリス・エルバが制作・主演・監督で関わる現代劇だったという。

それらの話はその後音沙汰がなくなった。少なくとも現状動きは止まっているように見える。

これは憶測なのだが、最も難航するのは現代においてカジモドを実写で描くことが難しかったのではないかということだ。

カジモドは作中で「醜い、気持ち悪い」と語られる。しかし、カジモドの身体的特徴は先天性のものであり、彼が望んだものではない。そして現実に存在するものでもある。現実にその身体的特徴に大小はあれど同様のものを生まれ持ったひとが多くいる。同様の当事者を間違いなく傷つける表現でもあるとも言える。

では、カジモドを誰が演じるのか。

カジモドと症状は異なるが、身体的特徴を持って生まれてきた男の子を描いた『ワンダー 君は太陽(2017)』はいい映画だったが、主人公のオギーは特殊メイクで表現された。それに対し一部からは当事者キャスティングではないことからの批判はあったと記憶している。

個人的には当事者キャスティングではないことが悪いとは思わない。当事者を矢面に立たせないという選択もあるだろう。

気になってしまうのは、特殊メイクで表現したことによって「当事者を見慣れていない非当事者にとってストレスなく見られるビジュアルバランス」にされていた部分はないだろうか。ということだ。

2時間近い尺の映画を見せるにあたって鑑賞側の人間が耐えられるバランスを模索する工程は挟まってしまうのではないか。特殊メイクでもCGでもなんでもいいが、非当事者が先天性の身体的特徴を持った人間を演じるにあたっては、どうやっても“調整”が行われる。それはつまり、非当事者が耐えうるビジュアルになる可能性が高い。ということだ。当事者は自らの身体的特徴を選べたわけではない。しかし、そのような特徴をもった主人公をメイクやCGで作るにあたってはそれができてしまう。それはものすごくグロテスクな構造だ。

ディズニーアニメーションの『ノートルダムの鐘』は素晴らしいアニメーション映画であることは間違いない。個人的には劇団四季版(ミュージカル版)をベースに実写映画を見たい気持ちもないわけではない。

しかし、先に挙げた懸念点をクリアするには当事者をキャスティングするほかないが、ディズニーにその度胸があるか。といえば、ないだろう。

それであれば、作られない方がいい。Netflix版にしても同様である。

『劇団四季 ノートルダムの鐘』のカジモドは非当事者が演じているが、舞台の上で俳優が作りもののコブをつけ、身体的特徴の表現であろうメイクをし、衣装を着た瞬間に姿勢と表情が変わり“カジモド”になり、ラストで主演俳優は舞台の上で“カジモド”からひとりの俳優に戻る。

つまり、舞台の上での表現が作り物であることが提示され、作品のテーマでもある「何がひとを人間にして何がひとを怪物にするのか」が非当事者が“演じる”ことで観客に問われる作りになっている。

『みいちゃんと山田さん』では部分的に作画が変わる。という演出がされたが、あの部分はまさに先に挙げた懸念点を露悪的に表現したものだと思う。

あの可愛らしい絵柄もマジョリティが気持ちよく消費できる要素のひとつでもあり、社会に何かを問うているようにも見えず、アニメにする意義もあまり感じない。単にその悲惨な結末ありきでバズった数ある露悪マンガのひとつに思えてしまうのだ。

アニメ化された際には話題にもなるだろう。しかし、その1年後には誰も話題にもしないその場ありきの露悪をマジョリティが気持ちよく消化しただけの作品になってしまうとしたら、そこに取り残されるのは雑なレッテルを上塗りされた当事者だけだ。

本当にそれでいいのか。

今週考えたのはそういうこと。

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